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鴻池 朋子
メディシン・インフ
ラプロジェクト

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メディシン・インフラ

北に向かって作品で罠をかけてゆく鴻池朋子のプロジェクト2023〜

 

 

東北の方々のお家に、私の作品を設置し保管していただきながら展示をする、というプロジェクトを始めました。一昨年に青森県立美術館(通称 青森県美)での個展開催が決まった途端、私は作品を美術館ではなく、私の住む東京と青森県美との間にある広い広い東北という地形のどこかに、私の作品を設置するしかないな、と思いつきました。なぜか自分と目的地を直線的に結ぼうとする道筋がとても妙に感じ、その途中にこそ作品を展示して行こうと思ったのです、徹底的に。

関東にある私のスタジオと来年個展を開催する青森県美とは直線距離で約700km離れています。その間に広がる東北でこれまで私がご縁のあった場所に、次の展覧会までの間、過去作品を設置し預かってもらい、そうやって北に向かって点々と寄り道をしながら青森県美の方へ向かっていこうと思います。設置場所は観光地でも美術館でもなく、ごく普通の巡る季節の中にある景色や生活空間、仕事場、商店、庭、裏山、雑木林、学校、墓地などどこへでも。ご興味を持っていただける方々と縁があって巡り合ったら、これまでつくってきた絵画、彫刻、映像、絵本、アニメ、アースワーク…etc.から相性の合うものを選んでいただき、作品の「一時預かり所」として、次の展覧会まで展示保管していただけたらと思っています。

 

もちろん美術館には大きな収蔵庫があり、長年に渡って収集されてきた作品がたくさん大切に保管され続けています。「大切なものを保管する」という歴史や文化の継承の仕方がある一方で、私は少し変わっていて、大切なものこそしまっておかず外に持ちだして触ってもらえ、と思ってしまいます。矛盾しているように思われるかもしれませんが、仕事をしてきた中でこれは率直な思いです。考えてみれば私も美術の仕事をする前は、そんなに作品だと気負わないで、大切なものは側に置いて一緒に生活し、触ったり撫でたりを至極あたりまえにやっていることでした。大切なものは、作品というその物にあるのではなく、それを介して流れる時間、現象など周り全てを含んだ常に変化してゆく動的なものだからです。大切なものも家も収蔵庫も地球のスペースもどうも永遠ではないらしいし、また美術館やコレクターだけがそれを持てるという特権的なこととも全く関係ありません。大切なものとは、全部、違うからです。そういう動的なものは誰も捕まえて保存ができない。では何を保存し伝えようとしているのかとあらためて考えてみます。でもやっぱりよくわからない。そこで最後に思いあたったのが、一般の方々に協力してもらい、保管庫として作品と一緒に生活してもらうということでした。

作品自体は有形であり、そこにあって目に見え、触れることのできる一種の道しるべのようなものなので、その場所に置きさえすれば、あとは持った人が使っていくことで何かしら起こってくるだろうと。そういう両者の間にだけ起こるシンプルなことをやってみたいと思います。

作品側からしてみれば美術館よりもセキュリティの危うさや、日光や隙間風や湿気が入りこむことも含めて外界との摩擦は起こりやすく、自ずとタフにならざるを得ない環境です。でも、そういう場所にこそ作品をさらし、つくる人もみる人も作品も鍛えられていけたらと思うのです。

私は、猟師がやがてやって来る動物のことを想像し、その動物の足元へ丁寧に罠を仕掛けるように、ご縁があったフィールドに点々と黙々と作品という罠を仕掛けていけたらと思います。

 

これまで観客は美術館というある目的地に、高速道路、新幹線、飛行機などの点と点を直線で結ぶインフラ(社会基盤)を使って向かいましたが、ここでは途中下車し在来線や地域バスや徒歩を併用し独自のルートでくねくねと北へ向かいます。そこは景勝地でも秘境でもありません。何時間も変わらない車窓からの凡庸な眺め、旅の途中で起こること、危いこと、その人のセンサーその人の皮膚でしか感じられない道筋が旅の足跡としてドローイングされていきます。旅する観客たちのお腹はいつもペコペコ。その土地の温かいご飯をいただき、話を聞き一晩宿を借りる。そしてまたそれぞれのペースで動線を描きやがて青森県美へと辿り着く、もしくはどこかに逗留してしまい青森へ辿り着かない。でもそれはそれ、というプロジェクト。これは青森県美での個展が終了しても続きます。

現在、茨城、福島、宮城、岩手、北海道で静かに設置が進行中です。はじまってみると人間の決めた県境や国境とは関係なく、ユーラシアや北米大陸へも点々と足跡が繋がっていく気配がします。こうなるとその土地にある美術館は旅の途中の大きめのランドマークくらいの役目。ああ、あそこに行けば、ようやく一服休憩ができる。

 

こんな思いつきがどこからやってきたのか、考えてみました。

20年くらい前から、私は作品をつくっては美術館で設置し、まるで旅芸人のように各地を巡って展覧会を開いていくようになりました。どこの国にも美術館がありますから仕事をする上ではそれは当然な流れなのですが、移動は年と共に加速していきました。しかも美術館のある都市デザインは似ていますし、室内に入ればほぼどこも同じです。たまに14世紀の修道院や山奥のワイナリーや遺跡の中などの会場もありましたが、作品に壮大な歴史の額縁が付いたようで写真映えがし、どこまでも劇場的でした。移動してもあまり摩擦や手応えがなく、好きなことをやっているはずなのになぜか息苦しく、呼吸ができる場所を探し、作業が終わると美術館を抜けだして郊外の森などに散策にでかけて過ごすようになりました。そしていつからか目的地へも、いわゆる推奨ルートは使わず、時間が掛かっても大切な寄り道をしながら独自の道筋で往復するのが常となりました。移動中に生まれた作品も多々あります。でもそれよりも家にあまり帰れず、常に永遠のホームシックのような気持ちがありました。家に帰ってきてさえも、どこか帰る場所を探す感じがありました。けれどもいつしかその気持ちも小石のように固まって忘れたことになりました。自分の旅というのもほとんどしたことがありません。

 

そんなある日のこと、鹿児島で取材にやって来た新聞記者がいました。鴻池さんにぜひ会わせたい人がいると鹿児島訛りでいわれて、紫尾山(しびさん)にいる年老いた猟師の家へ行くことになりました。家はタウミ川上流の岸辺にあり、猟師は山で鹿と猪、川では鰻を獲り、庭で養蜂をし、時々私立探偵をして暮らしていました。村落の怨恨や悩み事相談を請け負っていたようです。植物で軟膏のような薬もつくっていて、山ヒルに噛まれたときに塗ってもらいました。気心が合い(なぜか私は幼い頃から老人と相性がよい)、それから仕事の合間に会いに行くようになり、罠の見回りに同行させてもらいました。猟師が掛かった鹿を解体し、私はその鹿の内臓の奥にかじかんだ手を差し込んで暖を取り、里に運び料理してもらいたいそう美味しくいただきました。鹿肉が醤油と焼酎と共に腹に落ちていくとき、長年のホームシックの塊が一瞬トロトロと柔らかく溶けていくようでした。鹿の脂が全身にゆき渡ります。その時の鹿はまるで特別なメディシン(薬)でした。

 

何度か猟師の元へ通ううちに、このハンティング、銃や罠という道具を使って獲物を獲る一連の猟の動作は、自分が作品をつくり各地の展覧会の会場に展示していく仕組みとどこか似ていると思うようになりました。あるとき鹿が一歩そこに踏み込んで罠が作動する。限りなく遠くにいたはずの人と動物の両者が罠を介してぐっと引き寄せられます。殺す、死ぬ、噛んで呑みこむ、お腹に満たされる。一方で作品は展覧会という仕掛けを通して、関係のなかった人を引き寄せ、強く接近させます。猟は罠によって生きものどうしの縁が結ばれ生死も結ばれます。「縁」という言葉は妙な機能を持った言葉だと感じていましたが、それは限りなく動物寄りにつくられた人間の言葉なのかなともこのとき思いました。仕掛けた罠と動物が、仕掛けた作品と観客がそれぞれ交差する。そこには似たような道筋、デザインが見えます。

けれども、罠と作品、猟と展覧会とでは完全に違うことが一つありました。それは、作品を介してやってくる観客は「食べられない」ものである、ということでした。これは決定的な違いでした。つまり私が作品をつくり展示して人に見せることとは、当然ですが、生きものを殺して噛んで呑みこんではいないのです。何かをつくっていると、一瞬ご飯を食べなくても生きていけるような興奮や驚きに陥りますが、実はお腹はからっぽ。これは果てしなく呪術的な仕事なのかもしれないと思いました。だから作品って手応えがないのか。もしかしたら私のホームシックとは、この食べられないものを捉えるために罠を仕掛けているという疎外感、いやきっとものすごい空腹感によるところが大きいのだと思います。

 

ノスタルジア(郷愁)とは究極のそして深刻なホームシックのことだそうです。

故郷に帰りたくとも帰れない、家を想いすぎて気が変になる。そういう故郷、ホーム、家とは、もしかしたらずっと作品というものばかりつくっていて、しっかり捕まえて触って、殺して、噛んで、呑みこんでいないから、眺めてばかりで全然食べていないから、再三現れてくる呪文のようなものかもしれません。これはなんとかしなくては。

そんな話せば本人の呼吸がうまくできないという本当に小さなことからなのですが、満を持して、ある日このようなプロジェクトになっていった次第です。

 

ところで、鹿児島の新聞記者がなぜ猟師と私を会わせたのか、そのわけはわかりません。

けれども旅をしていると、必ずこの記者のように鼻が効き、直感力のある動物のような人が現れ、手助けをし仲立ちをしてくれました。それは立ち寄った商店の方だったり、たまたま道を聞いた人だったり、人以外にも大雨だったり台風だったり。私はその何気ない事象によって、旅の途中で“鹿肉”のようなものを処方され、助けられ、今日まで多くの命拾いをしてきました。その道筋は地図には載っていないし、絵や文字でも明確に指し示せない場所だから、自身のセンサーで気を嗅ぎ分けて歩いていくしかない。そういう体の芯から立ちのぼるような薬の筋、メディシンインフラが、観客一人一人の移動によってのみ現れてくるのではないかと思います。私の作品はその道しるべとして、微かに機能すればよいかなと思っています。

 

 2023年9月  鴻池朋子

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